日本に帰って久しぶりの実家に戻りました。
ワーホリ中も全く帰国していなかったので、丸1年5ヶ月ぶり。
こんなに長く日本や実家を離れたことはありませんでした。
家族は温かく迎えてくれ、関係がギクシャクしていた父も心なしか穏やかに対応してくれました。
ワーホリ出国直前に生まれた愛犬もすっかり大きくなっていましたが、覚えているものですね。
着いてから30分は全く離してくれませんでした。笑
家族の次に心配だったのは、祖父が亡くなってから日を追うごとに痴呆が進む祖母の容態でした。
出国時の海外旅行保険も、祖母に何かあった際には一時帰国が出来るタイプのものを申し込んで出て行きましたが、結果このような形で帰ることになってでも祖母に会えることは嬉しいことでした。
祖母のいる母の実家に行って見てビックリ。
「どちら様ですか?」
と叔母に言われてしまいました。笑
ワーホリ期間はお金の節約で坊主にしていました。
思い返せば小さい頃から坊主にしたことがなく、叔母も見慣れていなかったのでしょう。
日焼けも酷かったですし。
祖母の部屋へ通してもらうと、祖母はすぐに私と分かって
「おとくん、よく来てくれたね。ちょっと焼けたかね」
なんて、つい昨日まで会っていたような感覚で迎えてくれました。
私といる時間は痴呆を感じさせることもなく、凛とした祖母らしいはっきりした口調で30分ほど話をしました。
「あんなしっかりしたお祖母ちゃん見るの、久しぶりよ」
そんな風に叔母の方が返ってビックリしていましたが、無事に祖母、叔母とも再会が果たせ、本意でない帰国の中にも、帰って来て良かったと思えることが見つかったことに安心感を覚えていました。
それからしばらくはまた将来探し。
父も一応心配もあって聞いてはきましたが、乙飛子が決める道ならそれでいい、精一杯やってみなさい、と、結論が出る前から自分の意思を尊重してくれたことにビックリ。
何をやっても父にはかなわないと今でも思うことは多いですが、そんな父からも委ねてもらった決意。
精一杯生ききろうと思えた瞬間でした。
塾講師時代の友達や同期との再会などを経て、改めて料理への興味、オーストラリアへの回帰を実感し、お世話になっていたエージェントさんへ連絡の上、学校や今後のビザのプランを相談。
シドニーで半年分の学費を捨ててしまったので、予算は下がりましたが幸い良いメルボルンのあるビクトリア州の田舎に評判の良いTAFEがあるということで、そこに決定。
また一からやり直すにはシドニー以外が良いと思っていたので好都合。
でも実は、このとき予算があればパースのTAFEにしていたと思います。笑
いよいよ学校も決定して申請代行をお願いし、必要書類も出してビザの申請も完了しようかという矢先、祖母の容態が急変。
6月12日、子供と孫に看取られ、天国に旅立ちました。
死は生の一部という考え方が一般的なオーストラリアの慣習の影響もあり、少し死への恐怖や恨みのようなものは薄れていたものの、やはり死別は寂しいもの。
この瞬間に私の祖父母は全員他界しましたが、何か世代がひとつ前に押し出された思いで、ちょっと怖くなったことを覚えています。
「あなたはこの瞬間のために帰って来たのよ」
と母に言われ、自分がこれから進む道に対しての覚悟を持たせてくれたんだと、祖母との再会を感謝。
自立とは経済的なものも多く意味するとは思いますが、やはり精神的な生きていく覚悟なんだと私は思っています。
いいときもあれば、悪いときもある。
そんなどんな瞬間も笑って楽しめる自分でありたい。
生きる力を、強さを、自分につけていきたい。
そう思いながら祖母の葬儀を終え、すぐにオーストラリアへと飛びました。
「今度こそ掴んでみせる」
何を掴むのかは自分でも良く分かっていませんでしたが(笑)何か自分に決定的に欠けたピースがあると感じていたのでしょう。
当時DVDが開始されたばかりだった映画「NANA」の主題歌を聴きながらメルボルンに入りました。
「あれ?天気悪いなぁ?」
新しいスタートに水をさされたような初日でしたが、気持ちでは負けんと、精一杯の前向きさで幕を切ったメルボルン生活でした。
苦難はここでも続きます。